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メモ:なぜ山に登るのか

なぜ山に登るのか

これは以前このブログのプロフィールにも書いたことが原点だと、個人的な生い立ちのなかからそう感じている。

近頃は、ビヨンド・リスク(山と渓谷社)の影響もあり、やはりなぜ?を考えるときがたまにある。
※ビヨンド・リスクは、世界的に有名となったクライマー17人にインタビューを行い、それぞれの山や冒険、それにまつわる各々の思想や本質が垣間みえる。とても良い本。

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日常の中で、なぜ山に登る?なんて考えても5分と持たない。なぜなら雑多極まりなくとにかく思考は忙しく落ち着きがないときが多く、単純に集中できない。考えることを無駄と諦めているからかもしれない。

山に登るとき下るとき、テントを張りぼけっと空を眺めているとき、山にいる多くの時間は、ひたすらに自由であり、ある種それは地平線のように静かで穏やかで、その時間は長くも短くもあり、簡単にトランス状態に持っていけるものである。

特に登山道では、体を動かす以外は頭は暇そのものであるので、いつも何かを考えている。単調な修行のような時間。
それは、なんでこんな苦労してるのか、今このときの体調のこと、山行のスケジュールのこと。
そして、しばらくすると私生活で関わる人たちのこと、仕事のこと、未来や過去のことに変わっていったりもする。
そういったものを整理する時間が日々には、やはりないのかもしれない。そしてこの修行のような時間には、それがたっぷりとあるだけなのかもしれない。

そもそも思考だけで何かを物理的に変えられるわけではないし、考えたって何も変わらないかもしれないけど、繰り返し考えて、ふとした時にこたえみたいなものにあたるときがある。ふとそこにあるのだよね。
それは誰から教わるものでも、自分で納得させるものでもなく、こじれた糸がはっと解けたようにごく普通に、雲がながれるようにごく自然に、そこにあるものである。
これはメモするわけでもなく、アップデートされ刷り込まれる。日常でまた思い出す事ができる。正しいとか善し悪しは分からないけど、ふとした個人的な悟りに近いものだと思っている。

山に登るのは、いろんなものがあってだ。
自然とひとつになり自分の存在を確認するため。
目的をもちそれを達成して満足を得るため。
きれいやおいしいやたのしいを感じるため。

そしてたぶんこのような精神的な話があるから魅力でもあるのだと思う。現実世界の自分と、自然のままに置かれたとき素っ裸な感性の自分と、その間から生まれ剥離された少しだけ新しい考えを得ることできる、それをつかみにいくためというのもある気がする。

本当はさ、ただ好きなだけなのかもしれない。
気に入ったザックやテントやギアに身を固め、山にいきメシを食いコーヒーを淹れ、景色を眺める。太陽も風も雨もぜんぶ隣にいる、そのおおざっぱな環境が好きなだけなのかもしれない。
だけどやはりおれは心を持った生き物だから、いつも何かを考えている。
そんなものが山の中では研ぎ澄まされて、神秘的に感じるだけかもしれない。

たまに山にいきたくなるときは、日常で煮詰まったときというのも、そう考えると合点がいくしね。
とは言いつつ、また今、すぐにいきたくなってるのだけど…。

秋にもう一本行けたらいいな。